プラモデルを再開する切っ掛けは、それから20年後に何となくやって来ました。
 車会社に勤務していた私は、それまでバイクには殆ど興味を示さずにいましたが、仕事の足にヤマハ・パッソルを使うようになったのが切っ掛けで、大きなバイクを凄く欲しくなり、なかなか思うようにならず欲求不満気味になっていた頃、会社の後輩に自分で作ったバイクのプラモデルを見せられ、それにとても引きつけられて近くにあった模型店に足を踏み入れてしまった事が現在迄続くプラモ作りの始まりでした。

 それからというものは、タミヤ1/12バイクを欲求不満を晴らすが如く片っ端から作り始めました。
 心は中学生のあの頃に戻ってしまい、道具も色も筆さえも満足に揃えないで始めてしまったので、当然見るに耐えない代物でしたが、本人は至極満足していたのですが、後輩の腕が上がった作品を見せられたり、ノウハウを聞かされたりして一念発起、筆塗りから缶スプレーに変わり、道具も徐々に必要に応じて揃える様になりました。
 グンゼのメタルバイクを作るのを境に工具類は格段に種類が増え、この事が後々の模型製作に非常に役立ち、作品の仕上がりに多大な影響を与える事となりました。

イマイ 1/12 BMW R100RS

我が愛車 BMW R100RS
キャディラック

アメリカ車との出会い

2002年8月1日公開

 その後数年経って、或るバイク屋さんとバイクの購入が縁でおつき合いが始まりました。
 このお方は家の押入と言わず天袋や箪笥の上にまで、とにかく殆どがアメリカ製の、しかも年式の古い車のキットで溢れかえっているのを知りました。
 それでいて飾りケースの中に並べられているのは、何一つ手を付けてられていないキットのボディー部分だけでした。
本人曰く「綺麗には作れないんですよ。」
 そこで、何を血迷ったか、「何か一つ作って上げましょうか。」っと言ってしまったのですが、そこは流石のご主人、私の腕試しと見てか、「失敗してもまだ売っているやつですから」と一台のレベル製の4駆のキットで、ブロンコという車名のキットを出してきて作らせて頂きました。
 この作品がとても好評を頂いて、このことが切っ掛けでこの方との現在迄続いているおつき合いの始まりであり、私がカーモデルを作り始めた記念すべき一台目だったのです。

 その後、押入の中のキット達は次々と完成車両となり、その数は200を越え、今では完成車両がストックを上回り、押入の中に空きが目立って来ると、それもご主人には寂しいらしく、小遣いに余裕が出来ると神田、恵比寿、日暮里など専門店に足を運んで、また密かに貯め込んでいるようです。
 陳列ケースも増えて、部屋が随分狭くなったとこぼしているくせに。



 私にとって、この外国製キットがいかに重要な素材だったか、このキット達のお陰で計り知れないノウハウを蓄積する事が出来ました、それも押入に入れられたまま何十年経ったのか判らない様な物が多く、シャシーやボディーが捻れている物も数多く有りました、モールドの甘さは言うに及ばず、合いがどうのチリがどうのを問題にしていたらきりがないキット達で、かつて子供の頃に経験した木製キットを思い出させてくれました。
 しかしキットのベースになる’40年から’60年代に架けてのアメリカ車には魅惑的な車達が数多く、これを再現しているアメリカ製プラモデルは未だに魅力的で、国産プラモデルメーカーが持っていない大きな違いだと思います。
 国産プラモデルも過去にはこの様な曖昧なキットが有ったと思いますが最近のキットの精巧さには全く驚かされます。
 誰が作ってもそこそこ形になるキットですが、前述の様に苦労して完成させる喜びを得るには少々物足りなさが多く、私にとっては面白みに欠けると思いますが、そう思うのは私だけでしょうか。

510
 パソコンを始めたのは’02の3月からで、動機は、趣味でやっている模型作りの記録を残して置きたいからで、今迄は一眼レフで完成品を撮影してアルバムにしまい、製作記は古ーいワープロで書いてフロッピーに残して置いたのが、ある日そのワープロが突然壊れてしまい、この際とばかりパソコンの導入に踏み切った次第で、完全に未知なるマシンたるPCをどう理解して良い物やら、購入する前に随分いろんな本を読んで研究しました。

 いざ導入と言っても肝心の予算の有ることで、高価な物から廉価な物まで、それはそれは種類が沢山有って、無知な者にとってどれを選んで良いのか至難の技でした。
 結局、写真をいじりたいのがメインになりそうなので、スピードが早く容量が大きく、画面が大きくて場所を取らない等、自分の要望を絞り込み予算内に入る機種を選びました。

 導入にあたって様々な本を読んでいた事で有る程度予備知識が入っていましたが、やはり最初は、今思えば笑ってしまう様なトラブルも結構有りましたが、最近はやっとスムーズに扱う事が出来る様になりました。
 しかし、未だに独学でやっていることもあり、初心者の域をまだまだ脱する事は出来ず、早く使いこなしたいと勉強中です。

          

 私の車歴は左のサファリ仕様の510に強く憧れ’70年、メーカーと間違えて東京の日産ディーラーに技術社員として入社。
 ’72にやっと下取りの非常に程度の良い憧れのSSSセダンを手に入れ、外見ノーマル、足回りはラリーサスを組み込んで、ここから私と車の付き合いがスタートしました。
 以降、KP710,910TURBO-Sと乗り継ぎ、それぞれ15万Km以上走破しました。
 現在は日産をすでに14年前に或る事情により退社してから乗り続けている鈴木の軽自動車も、すでに30万Kmを超えました。  
 自分で殆どのメンテナンスが出来る強みの賜物でしょうか。

            


 模型作りの始まりは古く、小学4年生の頃に初めて手にしたのは木製ソリッドのF104スターファイターのキットだったと記憶しています。
 当時プラモは輸入物が殆どで、デパートの陳列ケースの中に蓋を開けて中身をみせて並べてありました。
 値段も高価でとても子供の手の届く代物ではありませんでした。
 町の文具店に置いてある模型の殆どが木製キットで、船・飛行機・車・建築物、等々色々な種類がありましたが、中身はと言うと、部分部分の木のブロックと組み立て説明図ならぬ設計図が入っていて、幾つもの断面図や寸法に合わせて削りだして形を作り出していくという、まさに素材だけ入ったセットでした。
 所詮、子供の世界の趣味ではなく、職人技を要求するキットばかりでした。

 それでも当時の子供達は、鋸やかんな、小刀や釘金槌等を或る程度使える子が結構いて、果敢に挑戦してはみるものの満足に仕上げる事は出来ない有様でした。
 中学に入った頃から、やっと国産プラモも身近になり文具店の店先に戦艦大和や零戦のパッケージが陳列されているのをよく見に行ったものでした。

 1/72戦闘機には夢中になって、色もろくに塗らずに作り、板を切って作った棚に並べて机の上を随分と狭くして、「勉強の邪魔だ」っと親によく怒られたものでした。
 中学3年の時、家の引っ越しを契機に、それまで小遣いで作り貯めた模型達と別れ、長ーいブランクを置くことになりました。


PC
ライン
リンク


トップページヘ戻る

 生まれは1940年代後期、正に団塊の世代です。
 埼玉は八潮に住んで14年、娘2人、息子1人、妻と私、それと放し飼いの文鳥ヒナちゃんの5人と一羽の賑やか家族です。

自己紹介

Yoshidaファミリー、5人と一羽。